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「エルサレムよ。戒めを受けよ。」(エレミヤ6章8節)

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今回は、エレミヤ書から4回目のメッセージです。前回は、「背信の子らよ。帰れ。」(エレミヤ3章22節)とのテーマで語りました。神は民が悔い改め、立ち返ることを願っておられます。3章14節から18節には、神様は民の失敗を赦してくださり、彼らをもう一度シオンに集めてくださるとのメッセージが書かれています。回復の業は南ユダだけではなく、北イスラエルに対しても始まります。それは、すでに国を失い、捕囚とされた一握りのイスラエルの民から始まるのです。そこには、彼らの悪いかたくなな心が変えられ、そして、ユダの家はイスラエルの家と一緒になり、・・・帰って来る、と書かれています。新しい回復の業のために、新しい牧者が与えられ、回復や癒しの業が始まるのです。22節には、「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」と書かれています。神に立ち返る時に、そこには赦しがあり、いやしがあるからです。私たちも、神の大きな愛を信じて神のもとに帰る者でありたいです。今日はエレミヤ書6章に入ります。「エルサレムよ。戒めを受けよ。」との6章8節の言葉を取り上げます。神の前に形式的には悔い改め、立ち返ろうとしていたイスラエルの民に向かって、戒めを受けよ、と神様が語りかけています。ここには、続いて、「さもないと、わたしの心はお前から離れ、おまえを住む人もない荒れ果てた地とする。」との警告が続いています。神からの戒めを受ける、そのチャレンジをいただく者となりたいと思います。それではエレミヤ書6章をお読みください。
6章1-5節では、外面的には麗しい牧場に休息している民の上に、大いなる破滅が北から臨もうとしている現実を指摘しています。それは、バビロン軍が昼も夜もエルサレムを襲い、神殿も滅ぼされるという裁きの時が近づいているのです。加えて6節には、この破壊が万軍の主の業であることが明らかにされています。
北イスラエルは既に滅ぼされ、多くの民はアッシリアに捕囚とされて行きました。本来ならそのような出来事から南ユダは多くのことを学び、彼らの歩みは違ったものとなって良かったはずです。5章1節には、「エルサレムのちまたを行き巡り、さぁ、見てみるがよい。その広場で探して、だれか公義を行ない、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。」と書かれています。この5章の中心は神の審判のメッセージです。失敗から学び、神に立ち返る者がほとんどいない現実が指摘されています。そして6章では、裁きの厳しさが明らかに預言されています。エレミヤにとって、神の裁きを語ることは心痛いことであったと思います。実は6章11節に、エレミヤの心の葛藤が明らかに表現されているからです。
そこには、「私の身には主の憤りが満ち、これに耐えるのに、私は疲れ果てた。」とあります。真実な悔い改めをしない民を見て、彼が預言者としての働きに疲れ果ててしまうのも当然であるのかもしれません。しかしそんな中でも神様は彼に希望を与えることができる方です。その箇所に触れてみます。
心を痛めたエレミヤに、神様はその思いを人々にぶちまけなさいとうながします。11節の後半には、「それを道ばたにいる子どもたちの上にも、若い男の集まりの上にも、ぶちまけよ。」とあります。エレミヤにとって受け入れがたいエルサレムへの裁きは、すぐにでもバビロンからの侵入者によってもたらされようとしているのです。彼は、その現実を預言者として語らなければならないのです。13節には、「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利益をむさぼり、預言者たちから祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。」と民の姿が表現されています。裁きの現実とその裁きを起こされる神の思いをエレミヤはすなおに語ればよいだけです。その警告を受け入れるかどうかは聞き手にかかっているのですから。残念ながら、民はその警告を受けいれることが出来なかったようです。
続いて、16節には、「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸の道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。」と書かれています。四つ辻とは、道路がいくつかかさなっているところです。そこに立てばいくつかの道路を見渡すことができます。確かに神の裁きがエルサレムに及ぼうとしています。しかし今までの道を振り返り、幸への道があったことに気づき、いこいの場があったことを思いだすことができます。状況がどんなに大変でも、私たちはエレミヤ同様に、今までの歩んできた道を振り返ることができます。そして今日のメッセージである「エルサレムよ。戒めを受けよ。」とあるように、私たちも失敗から戒めを受けなければならないのです。試練や困難を神は無駄には与えません。
神様はこの箇所で、厳しい裁きが現実であることを明らかにしますが、続く27節にはこのように書かれています。「わたしはあなたを、わたしの民の中で、ためす者とし、試みる者とした。彼らの行いを知り、これをためせ。」とあります。これはエレミヤに向かっての新しいチャレンジです。ためす者、試みる者とは、民の現実を神の視点(聖書)から見ることができる者たちのことです。神の視点から物事を見るときに、私たちもいろいろなことに気づきます。神からの戒めを受けた者は大きな視点を持つことができるのです。エルサレムは罪を犯したがゆえに滅ぼされる。かつて彼らの礼拝の中心であった神殿はなくなる。神の臨在はキリストを信じる者と共にある。そう考えると、古いものから解放された新しい時代が来ようとしているのです。そのような時代が来る、それは、キリストによってもたらされる新約の時代への希望につながって参ります。後に、エレミヤは31章31節で、新しい契約が結ばれる時が来るとの希望のメッセージを語るようになるのです。
私たちも今世界の状況を見る時に、悲しい現実が私たちの心を覆います。世界のどこででも自己中心的な独裁者が起こり、多くの民が苦しむこととなります。今私たちはそのような現実を直視しています。聖書の価値観から離れ、モーセの十戒が禁じている、殺人や盗みやまた嘘の証言がそのような社会を覆っているのです。エレミヤがそうであったように、そのような現実の中に私たちクリスチャンも生きています。神様は正しい裁きをなされる。神はいつか悪を滅ぼされる。そのような希望を持ちながら、四つ辻に立って社会を見て行きたいものです。民に向かって、また地上のリーダーに対して、幸の道はどこにあるのかを訪ね求めて行きたいです。いこいの水が注がれる所があるはずです。神は全てをご存知ですから、エレミヤ同様に、戒めから学び、過去の出来事から学ぶことのできる信仰者でありたいと願います。
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6章1-5節では、外面的には麗しい牧場に休息している民の上に、大いなる破滅が北から臨もうとしている現実を指摘しています。それは、バビロン軍が昼も夜もエルサレムを襲い、神殿も滅ぼされるという裁きの時が近づいているのです。加えて6節には、この破壊が万軍の主の業であることが明らかにされています。
北イスラエルは既に滅ぼされ、多くの民はアッシリアに捕囚とされて行きました。本来ならそのような出来事から南ユダは多くのことを学び、彼らの歩みは違ったものとなって良かったはずです。5章1節には、「エルサレムのちまたを行き巡り、さぁ、見てみるがよい。その広場で探して、だれか公義を行ない、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。」と書かれています。この5章の中心は神の審判のメッセージです。失敗から学び、神に立ち返る者がほとんどいない現実が指摘されています。そして6章では、裁きの厳しさが明らかに預言されています。エレミヤにとって、神の裁きを語ることは心痛いことであったと思います。実は6章11節に、エレミヤの心の葛藤が明らかに表現されているからです。
そこには、「私の身には主の憤りが満ち、これに耐えるのに、私は疲れ果てた。」とあります。真実な悔い改めをしない民を見て、彼が預言者としての働きに疲れ果ててしまうのも当然であるのかもしれません。しかしそんな中でも神様は彼に希望を与えることができる方です。その箇所に触れてみます。
心を痛めたエレミヤに、神様はその思いを人々にぶちまけなさいとうながします。11節の後半には、「それを道ばたにいる子どもたちの上にも、若い男の集まりの上にも、ぶちまけよ。」とあります。エレミヤにとって受け入れがたいエルサレムへの裁きは、すぐにでもバビロンからの侵入者によってもたらされようとしているのです。彼は、その現実を預言者として語らなければならないのです。13節には、「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利益をむさぼり、預言者たちから祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。」と民の姿が表現されています。裁きの現実とその裁きを起こされる神の思いをエレミヤはすなおに語ればよいだけです。その警告を受け入れるかどうかは聞き手にかかっているのですから。残念ながら、民はその警告を受けいれることが出来なかったようです。
続いて、16節には、「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸の道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。」と書かれています。四つ辻とは、道路がいくつかかさなっているところです。そこに立てばいくつかの道路を見渡すことができます。確かに神の裁きがエルサレムに及ぼうとしています。しかし今までの道を振り返り、幸への道があったことに気づき、いこいの場があったことを思いだすことができます。状況がどんなに大変でも、私たちはエレミヤ同様に、今までの歩んできた道を振り返ることができます。そして今日のメッセージである「エルサレムよ。戒めを受けよ。」とあるように、私たちも失敗から戒めを受けなければならないのです。試練や困難を神は無駄には与えません。
神様はこの箇所で、厳しい裁きが現実であることを明らかにしますが、続く27節にはこのように書かれています。「わたしはあなたを、わたしの民の中で、ためす者とし、試みる者とした。彼らの行いを知り、これをためせ。」とあります。これはエレミヤに向かっての新しいチャレンジです。ためす者、試みる者とは、民の現実を神の視点(聖書)から見ることができる者たちのことです。神の視点から物事を見るときに、私たちもいろいろなことに気づきます。神からの戒めを受けた者は大きな視点を持つことができるのです。エルサレムは罪を犯したがゆえに滅ぼされる。かつて彼らの礼拝の中心であった神殿はなくなる。神の臨在はキリストを信じる者と共にある。そう考えると、古いものから解放された新しい時代が来ようとしているのです。そのような時代が来る、それは、キリストによってもたらされる新約の時代への希望につながって参ります。後に、エレミヤは31章31節で、新しい契約が結ばれる時が来るとの希望のメッセージを語るようになるのです。
私たちも今世界の状況を見る時に、悲しい現実が私たちの心を覆います。世界のどこででも自己中心的な独裁者が起こり、多くの民が苦しむこととなります。今私たちはそのような現実を直視しています。聖書の価値観から離れ、モーセの十戒が禁じている、殺人や盗みやまた嘘の証言がそのような社会を覆っているのです。エレミヤがそうであったように、そのような現実の中に私たちクリスチャンも生きています。神様は正しい裁きをなされる。神はいつか悪を滅ぼされる。そのような希望を持ちながら、四つ辻に立って社会を見て行きたいものです。民に向かって、また地上のリーダーに対して、幸の道はどこにあるのかを訪ね求めて行きたいです。いこいの水が注がれる所があるはずです。神は全てをご存知ですから、エレミヤ同様に、戒めから学び、過去の出来事から学ぶことのできる信仰者でありたいと願います。
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