「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)
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今回は、旧約聖書のイザヤ書から11回目のメッセージです。前回は、「わたしを仰ぎみて救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)とのテーマで語りました。わたしを仰ぎみて救われよ。そのように、神様は全世界の人たちに向けて語りかけておられます。そして、救われて行く信仰者をイスラエルの子孫と呼んでくださり、主によって義とされる(25)と約束されています。イスラエルの子孫とは、神によって選ばれた真の契約の民のことです。それでは、神が用意しておられる救いとはどのようなものでしょうか。救いは、私たちの善行によって与えられるものではありません。神の子である救い主イエスの十字架での贖いの業によって、信じるすべての者に与えられていくものです。イザヤは、苦難のしもべの預言を通して、イエスの十字架での罪の贖いの業を預言しています。イエスが生まれる8世紀も前に生きたイザヤがイエスの十字架での苦難をこんなにも生き生きと預言することが出来た、本当に驚きです。しもべとの表現は以前にも出てきましたが、私のしもべとの表現は、神が特別に選んで、ご自身の働きのために用いる者との意味あいがあります(41:8,9)。また、広く旧約聖書の預言者や、困難な中に残された信仰者の群れやイエス・キリストを指し示す言葉でもあります(42:1-4)。今回の苦難のしもべの姿は、何よりも救い主イエスの十字架を生き生きと表すものです。これらのイザヤの預言を通して、イエスの十字架での働きを覚え、イエスが私たちのために負われた苦しみを覚えてまいりましょう。それでは、53章を読んでみてください。
まず、旧約聖書の中で最初に語られている福音のメッセージを読んでみます。創世記3章15節には、「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫の間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」と書かれています。罪を犯した女とサタンに向けて神が語りかけています。女の子孫から救い主が生まれ、救い主イエスがサタンの頭を踏み砕くと語られています。ここに絶対的な勝利があります。100%の罪からの解放の業を神は用意しておられたのです。サタンはイエスのかかとにかみつきますが、それがイエスの十字架での苦しみであり、イエスは3日目に勝利者として死からよみがえることになります。神は、人類が罪を犯した時から、既に人類のために救いの道を備えておられたのです。
イザヤ53章1節には、「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。」と問いかけています。救い主が生まれ、十字架について人類の罪を贖う、このような驚くべきメッセージを誰か信じることが出来るだろうかと語り始めます。2節には、「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。」と書かれています。若枝とはメシアのたとえです。11章1節には、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」と書かれています。この若枝は、ダビデ王の子孫として生まれるのです。そして、王の子、また神の子であられるのに、砂漠のような厳しい状況で育ち、彼には見とれるような姿もないと続いています。3節には、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」とあります。悲しみの人で病を知っている、それは、あたかもらい病の患者がかつて社会から隔離されて行ったように、人々からのけ者にされ、心も体も病んでいったような状況を表す言葉です。参照レビ記13章。救い主は、私たちのあらゆる悲しみを知り、病の苦しみを知っておられるのです。4節の前半には、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」とあります。救い主は、私たちの代わりに病もその痛みも、になってくださるのです。続いて5節には、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」とあります。私たちのそむきの罪、私たちの咎と表現されています。アダムとイブが罪を犯し、神から離れて行った時に、神は救いの約束を与えてくださったように、この救い主は私たちの罪や咎を代わりに背負ってくださるのです。人類に罪からの解放を与えるために、自ら刺し通され、かつ砕かれたのです。それこそイエスの十字架の姿であり、全人類の罪を背負うという真の神だけができる業でもあります。この方が私たちの罪を背負ってくださったので、私たちには平安が与えられてまいります。そして、イエスの受けた打ち傷によって、私たちはいやされて行くのです。この働きは、私たちの努力ではありません。神の一方的な愛の業です。
6と7節には、自分かってな道に向かう人間の姿と、十字架の意味を知って神の御心に主体的に従おうとする救い主の従順さが強調されています。そして、10節の後半には、「彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」と書かれています。イエスは、自分の十字架での意味を十分に知っておられたのです。その苦しみもまた、人類に与えられていく祝福も、その両方です。マタイ16章21節には、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、・・多くの苦しみを受け、殺され、そして、三日目によみがえなければならないことを弟子たちに示し始められた。」と書かれています。その時とは、弟子の一人ペテロが、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と信仰告白をした時であり、イエスがあなたの信仰告白の上に、わたしの教会を建てます、と語られた時です。イエスこそ、父なる神のご計画を知り、その思いに徹底的に従おうとされたのです。その結果、キリストを神の御子キリストと告白する教会が世界中に建てられて行くことになります。
今私たちは、キリストの教会に集い、キリストの十字架での罪の贖いを受け入れています。そして、神からの平安を受けて生きています。わたしを仰ぎみて救われよ、と語られた神は、その救いも前もってイエスの十字架での御業を通して、私たちに備えておられたのです。12節の後半には、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」と書かれています。イエスの大祭司としての働きは今でも続いています。参照へブル7:24,25。今私たちはイエスの赦しの中に、また、とりなしの祈りの中に生かされていることに気づき、感謝する者でありたいです。
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まず、旧約聖書の中で最初に語られている福音のメッセージを読んでみます。創世記3章15節には、「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫の間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」と書かれています。罪を犯した女とサタンに向けて神が語りかけています。女の子孫から救い主が生まれ、救い主イエスがサタンの頭を踏み砕くと語られています。ここに絶対的な勝利があります。100%の罪からの解放の業を神は用意しておられたのです。サタンはイエスのかかとにかみつきますが、それがイエスの十字架での苦しみであり、イエスは3日目に勝利者として死からよみがえることになります。神は、人類が罪を犯した時から、既に人類のために救いの道を備えておられたのです。
イザヤ53章1節には、「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。」と問いかけています。救い主が生まれ、十字架について人類の罪を贖う、このような驚くべきメッセージを誰か信じることが出来るだろうかと語り始めます。2節には、「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。」と書かれています。若枝とはメシアのたとえです。11章1節には、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」と書かれています。この若枝は、ダビデ王の子孫として生まれるのです。そして、王の子、また神の子であられるのに、砂漠のような厳しい状況で育ち、彼には見とれるような姿もないと続いています。3節には、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」とあります。悲しみの人で病を知っている、それは、あたかもらい病の患者がかつて社会から隔離されて行ったように、人々からのけ者にされ、心も体も病んでいったような状況を表す言葉です。参照レビ記13章。救い主は、私たちのあらゆる悲しみを知り、病の苦しみを知っておられるのです。4節の前半には、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」とあります。救い主は、私たちの代わりに病もその痛みも、になってくださるのです。続いて5節には、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」とあります。私たちのそむきの罪、私たちの咎と表現されています。アダムとイブが罪を犯し、神から離れて行った時に、神は救いの約束を与えてくださったように、この救い主は私たちの罪や咎を代わりに背負ってくださるのです。人類に罪からの解放を与えるために、自ら刺し通され、かつ砕かれたのです。それこそイエスの十字架の姿であり、全人類の罪を背負うという真の神だけができる業でもあります。この方が私たちの罪を背負ってくださったので、私たちには平安が与えられてまいります。そして、イエスの受けた打ち傷によって、私たちはいやされて行くのです。この働きは、私たちの努力ではありません。神の一方的な愛の業です。
6と7節には、自分かってな道に向かう人間の姿と、十字架の意味を知って神の御心に主体的に従おうとする救い主の従順さが強調されています。そして、10節の後半には、「彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」と書かれています。イエスは、自分の十字架での意味を十分に知っておられたのです。その苦しみもまた、人類に与えられていく祝福も、その両方です。マタイ16章21節には、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、・・多くの苦しみを受け、殺され、そして、三日目によみがえなければならないことを弟子たちに示し始められた。」と書かれています。その時とは、弟子の一人ペテロが、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と信仰告白をした時であり、イエスがあなたの信仰告白の上に、わたしの教会を建てます、と語られた時です。イエスこそ、父なる神のご計画を知り、その思いに徹底的に従おうとされたのです。その結果、キリストを神の御子キリストと告白する教会が世界中に建てられて行くことになります。
今私たちは、キリストの教会に集い、キリストの十字架での罪の贖いを受け入れています。そして、神からの平安を受けて生きています。わたしを仰ぎみて救われよ、と語られた神は、その救いも前もってイエスの十字架での御業を通して、私たちに備えておられたのです。12節の後半には、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」と書かれています。イエスの大祭司としての働きは今でも続いています。参照へブル7:24,25。今私たちはイエスの赦しの中に、また、とりなしの祈りの中に生かされていることに気づき、感謝する者でありたいです。
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