ルカの福音書15章25節〜32節「兄息子は帰って来て」北澤牧師
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ルカの福音書15章25節〜32節
ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹くださったこともありません。
それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえにものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』
①きょうの聖書箇所は、主イエス・キリストの口から語られた「失われた息子たちの譬話」、
その後半の部分です。
・ここで父親に譬えられているのは、言うまでもなく、私たちの造り主、全知全能なる父なる神さまのことです。 またここに出てくる息子たち兄と弟、それは、他でもない、私たちのことです。
・前回は、その、弟息子にスポットを当ててゆきましたが・・、きょうは、この譬え話の後半に登場してくる、兄にスポットを当ててゆきたいと思っています。25節からです。
・ある日、兄はいつものように畑仕事を終えて家に帰ってきました。ところが何やらいつもと様子が違います。
家の中から「音楽や踊りの音」が聞こえてきたのです。
・ここに「音楽や踊り」と記されていますが・・皆さんは、この時、聞えて来た音楽は、どのような音楽であったと想像されるでしょうか・・。
・お祝いの音楽と踊りですから・・いわゆる、酒の席のドンチャン騒ぎのような、そんな音楽と踊りを連想なさる方が多いかもしれません。
・しかし、この時の音楽、それは、巷にある酒場などで鳴り響いている、品のない音楽とその踊りでは
なかった、ようです。
・といいますのは、ここに「音楽」と訳されている言葉がありますが、これは、原語では「シンフォニア」という言葉です。シンフォニア?どこかで聞いたことのある言葉です。
・そうです。イタリア語のシンフォニアです。 英語ではシンフォニー。ドイツ語ではジンホニー、これを森鴎外という人が「交響曲」という日本度に訳しました。 これはその元となった言葉です。
・このシンフォニアの「シン」とは、「共に」という意味で、「フォニア」は「響かせる」という意味です。
・ですから、私は、この時の音楽は、当時のいろいろな、素朴な楽器を持った人たちが、心一つにして一生懸命ある曲を響かせていた。 その響きが、家の中から外まで聞こえていた。そういうことであったと想像する
のです。
・音楽史の本を読むと、当時の楽器は、打楽器、小型のハープのようなもの、たて笛、ラッパ、そういう楽器であったようです。しかしこの頃の楽器はまだまだ未発達でしたので、音程は定まらないものばかりであったと考えられます。
・ですから、よほど心を合わせて、一生懸命演奏しなければ、音楽にならないようなものだったようです。
・私は、ここを読みます度に、人々が、当時の素朴な楽器を用いて、一生懸命心をあわせて演奏し、歌い、また踊っていた・・そういう姿を浮かべるのです。
②ではこの時、この音楽を聞いた兄は、どんな反応をしたのかといいますと・・
彼は一人の召使を呼んでこう尋ねます。→「これはいったい何事か!」
・そうです。 彼は、父親や使用人たちが音楽を奏でながら大喜びしているのを知っても、自分はその喜びの中に入ってゆこうとはせず、それどころか、その反対に、彼は異常なまでに怒り出し、家の中に入ろうともしなかったのでした。
・なぜこの兄は、これほどまでに怒り出してしまったのでしょうか・・。
・兄は、この時、畑仕事から帰ってきたところした。ですから、畑仕事用の服を着ていたと思います。
一方、遊女に溺れて帰って来た弟は、最上の着物、普通の人は決して着ることが出来ない長袖の立派な着物を着ていたのです。
・また弟は、上等な履物を履いていました。 手を見ると、何と、指輪がはめられているのでした。
これは、権威ある者の息子であるということを証明する特別な指輪でした。
・このような様子、そして怒った兄のこの言葉を読みます時に・・私たちはふとこう思ってしまうのかも
しれません。「イエスさまはここで、人間の心の奥にある嫉妬の恐ろしさについて語っているのかもしれない・・」
・確かにこの兄は、この時激しく嫉妬したのです。 しかし、ここを単なる嫉妬物語として読んでゆくだけですと、主イエス・キリストの宣教の、その入り口にさしかかっただけで終わってしまいます。
・主イエス・キリストの宣教は、小説のようでもなく、道徳的なことのお薦めでもありません。
主イエス・キリストの宣教の、その主意は、一見そのように思える、その奥の奥にあるからです。
・兄の言いたかったことはこうでした。
「父さん。よく考えてみてください。私は長年、いろいろなことにずっと我慢してあなたのそばで働いてきたのです。その間、友だちと思いっきり遊ぶことさえしないで過ごしてきたのです。一点の曇りもなく、 正に正し人間として生きて来たのです。しかし、あなたは私を使用人以下に扱ってきました。
・「一方、弟は、何と、遊女と遊び続けて、その為に、お父さんからもらった財産を全部使い果たしてしまったのですよ。そんな汚らわしい事をしてきた男です。 彼のような者こそ罪人です。
そのような男に、父さんは、上等な服と履き物、それに指輪まで与えておられる。
それはおかしいではありませんか!」
③私たちは、この兄の主張を聞くと、「よくわかる。この兄の言っていることは正しい!一方、この弟は実に汚らわしい、正にけがわらしい。」そのように思いそうになります。
・しかし、よくよく考えてみますと・・兄のように、罪と無縁な、澄んだ川の水の様な、そういう正しい人間は、果たして本当に存在しているのでしょうか・・。
・聖書は、「義人はいない、一人もいない」と語っています。
・果たしてこの兄は、本当に自分が言っている様に、罪なき正しい人間、つまり義人だったのでありましょうか・・
・確かに兄は、真面目に、ずっと父の前で、いい人を続けて来た人でした。 ですから、周りの人たちも、また、彼自身も、この一見理想的な生き方は、父を心から愛していた故だ、と思っていたのだと思います。
・一方、父親は、「弟が罪人で、兄が正しい人」そのような分類はしておりませんでした。
どの人間も、義人ではなく、罪人だと知っておられるからです。
ですから、父親は、同じ眼差しで、弟も、そして兄をも見ていたのです。
・ここに父と兄のずれがありました。
・しかし、この兄の心の奥底の、その真実が明らかになるときがきました。
弟が帰って来たのです。 そして、その家の中から、使用人が奏でる音楽が聞こえてきて・・
父が大喜びしているのを彼は見たのです。
・そこで、兄は、本性があらわになってゆきます。
④ところで、この譬え話のことを、日本では、長い間「放蕩息子の譬」という名で呼んできました。
しかし、この題名、はっきり言って、あまりよくない、そう思っているのは私だけではありません。
・それは、この譬え話に、放蕩息子という題をつけてしまうと、けっこう深刻な誤解が生じるからです。
・ルカの15章の所は、主イエスが語られた譬え話が連続して記されています。一番最初は「失った羊の譬話」
です。二番目は「失った銀貨の譬」です。そして、三番目の譬話しは、「失われた息子たちの譬話」なのです。
・つまり、いずれも、その失われたものが帰って来たことが、神さまにとってどれほど大きな喜びであるのか、このことについて語られている譬え話です。ですからこれはいわば、「失われた譬え話の三部作」です。
・そうであるのに、ここを、「放蕩息子の譬話」と言い出してしまいますと、こういう誤解が生じます。
・放蕩とは、酒や女遊びに溺れて品行がさだまらないことを意味しますから、三番目の譬話しは、弟の事に
違いないと多くの人が、そう思ってしまいます。
・したがって、弟の後に出てくるこの兄は、酒と女遊びとは無縁の人だったので、この兄のことは、いわば付けたしのようなもの。 こう思ってしまいます。 もしそうであれば実に残念な事です。
・そもそも、父が弟息子を必死に捜していたのは・・、この弟が堕落した生活をしていると知ったからではありませんでした。 たとえ、この弟息子が、事業に大成功して大金持ちになったり、有名人になったりしていたとしても・・父は、この失った弟息子を同じように捜し続けていったに違いありません。
・父が喜んだのは・・、弟が、放蕩生活をやめたからではありませんでした。
父親が大喜びしたのは、弟息子が、自分の元に帰って来て、父親と共に生きる者になったからでした。
・ところが、この箇所を、「放蕩息子の譬話」として読んでゆきますと・・
多くの人は、「これは弟の反省物語だ。 人は乱れた生活からちゃんとした生活をする者に変わらなければならない、これはそういう話だ。」そのように誤解をしてしまうことになりかねません。
福音が、道徳にすり替えられてしまう・・可能性が生じます。
・そういうわけで、私はここを読みます時には、「放蕩息子の譬話」として読んではおりません。
「失われた息子たち」として読んでおります。
・「失われた息子」とは、言うまでもなく、「父の身元から失われていた息子」ということです。
では、その失われた息子とは、誰のことを指しているのかです・・
・そうです。もうお気づきだと思います。 ここで語られた主イエス・キリストの譬え話は・・、
放蕩して帰って来た弟のことだけではなくて・・兄もまた失われていた息子であった。
・しかし、弟が帰ってきたことにより、兄もまた、父のもとに返ってくることが出来た、そのことこそ、
父の最大の喜びだった。こういう譬え話なのです。
・このことに気づくか否か、これが神さまのメッセージが、自分の心に届いてくるか来ないかの分かれ目です。
⑤皆さんは、ご自分のことを、この兄弟のどちらに重ねて読んでおられるのでしょうか・・。
・ここに出てくる弟は、誰にもわかる、「単純堕落型罪人。罪人A型」。
兄は、「一見いい人型罪人。罪人B型」 こんな風に言ったら分かり易いかもしれません。
・私は40年程牧師の働きをしてきましたが・・ぼろぼろになってようやく、己の罪に気が付く人、丁度弟のような罪人は、実際には意外に少なく・・、
・大方の人は、ずっとずっと、いい人をやってきたので、なかなか己の罪に気付くことがなかった。
しかし、教会の温かい交わりの中に置かれ、静かに、素直に、己の心の中を考えることができるようになって、そこでようやく己の罪に気づいていった。そういう方々のほうが多い、そんな風に感じています。
・真面目で、一生懸命生きて来た皆さんは、この兄のことがとてもよくわかるのではないでしょうか・・。
どちらかと言えば、私もその一人です・・。
⑥最後に、そういう兄に、父親が語ったその言葉に注目していただきたいと思います。
怒り出した兄を必死になだめている父の言葉です。
・31節 「子よ。 おまえはいつも私と一緒にいる。 私のものは全部お前のものだ。」
・この時兄は、本当の意味で、はじめて父の本心を知ったのでした。
・私は思います。この弟が帰って来た、という事件がなかったら、この兄は激しく嫉妬することもなく、
いい子をずっと続け、 自分でも自分が、いい人だと勘違いし続け・・物理的には父の近くいたにも
かかわらず、父の本心を知ることがなく、そのまま、すべてがあやふやなままで死んでいったかもしれません。
・しかし、今、彼は、父が自分と一緒に居てくださること、父のものは、全部、自分のものであることを
知ったのでした。つまり、自分は神さまの恵みの真っただ中にいるということを彼は自覚できたのでした。
・そうです。兄もまた、ここで、ようやく、本当の意味で、父の身元に帰って来ることが出来たのでした。
失われた者から、真に、父と一緒に生きる者となったのでした。
⑦ある神学者はこんなことを言っています。 「確かに、彼は父の愛はわかっていなかった・・
しかし、それは・・彼の意識としてはわかっていなかっただけであった・・。」
・「深層心理的に言えば、彼は分かっていたのだ。・・無意識の中では・・彼は・・父親に愛されている
ということを知っていたのだ・・。」そんな風に言っています。
・そうかもしれません。私は、この兄の深層心理については専門外なのでよくわかりませんが、
しかしこの兄の、怒りの内容から、彼の心の叫びがよく聞こえます。
・「お父さん。どうして、この私をもっともっと 愛してくれないのですか・・
どうして・・弟のように、私を認めてくれないのですか・・」 そういう彼の、心の叫びです・・。
・いずれにせよ、この叫びと、それに答えて言った父の御言葉によって、この兄は、この日から、「いい人をやらなければ」そういう強制観念から解放されたのでした。
・私たちも、きょうからの日々、今まで以上に安心して・・父なる神さまの確かな息子として、父なる神さまの確かな娘として、その指輪をはめている者として、のびのびと、隣人を自分と同じ様に愛することに、生きてゆきたいと思います。
…
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ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹くださったこともありません。
それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえにものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』
①きょうの聖書箇所は、主イエス・キリストの口から語られた「失われた息子たちの譬話」、
その後半の部分です。
・ここで父親に譬えられているのは、言うまでもなく、私たちの造り主、全知全能なる父なる神さまのことです。 またここに出てくる息子たち兄と弟、それは、他でもない、私たちのことです。
・前回は、その、弟息子にスポットを当ててゆきましたが・・、きょうは、この譬え話の後半に登場してくる、兄にスポットを当ててゆきたいと思っています。25節からです。
・ある日、兄はいつものように畑仕事を終えて家に帰ってきました。ところが何やらいつもと様子が違います。
家の中から「音楽や踊りの音」が聞こえてきたのです。
・ここに「音楽や踊り」と記されていますが・・皆さんは、この時、聞えて来た音楽は、どのような音楽であったと想像されるでしょうか・・。
・お祝いの音楽と踊りですから・・いわゆる、酒の席のドンチャン騒ぎのような、そんな音楽と踊りを連想なさる方が多いかもしれません。
・しかし、この時の音楽、それは、巷にある酒場などで鳴り響いている、品のない音楽とその踊りでは
なかった、ようです。
・といいますのは、ここに「音楽」と訳されている言葉がありますが、これは、原語では「シンフォニア」という言葉です。シンフォニア?どこかで聞いたことのある言葉です。
・そうです。イタリア語のシンフォニアです。 英語ではシンフォニー。ドイツ語ではジンホニー、これを森鴎外という人が「交響曲」という日本度に訳しました。 これはその元となった言葉です。
・このシンフォニアの「シン」とは、「共に」という意味で、「フォニア」は「響かせる」という意味です。
・ですから、私は、この時の音楽は、当時のいろいろな、素朴な楽器を持った人たちが、心一つにして一生懸命ある曲を響かせていた。 その響きが、家の中から外まで聞こえていた。そういうことであったと想像する
のです。
・音楽史の本を読むと、当時の楽器は、打楽器、小型のハープのようなもの、たて笛、ラッパ、そういう楽器であったようです。しかしこの頃の楽器はまだまだ未発達でしたので、音程は定まらないものばかりであったと考えられます。
・ですから、よほど心を合わせて、一生懸命演奏しなければ、音楽にならないようなものだったようです。
・私は、ここを読みます度に、人々が、当時の素朴な楽器を用いて、一生懸命心をあわせて演奏し、歌い、また踊っていた・・そういう姿を浮かべるのです。
②ではこの時、この音楽を聞いた兄は、どんな反応をしたのかといいますと・・
彼は一人の召使を呼んでこう尋ねます。→「これはいったい何事か!」
・そうです。 彼は、父親や使用人たちが音楽を奏でながら大喜びしているのを知っても、自分はその喜びの中に入ってゆこうとはせず、それどころか、その反対に、彼は異常なまでに怒り出し、家の中に入ろうともしなかったのでした。
・なぜこの兄は、これほどまでに怒り出してしまったのでしょうか・・。
・兄は、この時、畑仕事から帰ってきたところした。ですから、畑仕事用の服を着ていたと思います。
一方、遊女に溺れて帰って来た弟は、最上の着物、普通の人は決して着ることが出来ない長袖の立派な着物を着ていたのです。
・また弟は、上等な履物を履いていました。 手を見ると、何と、指輪がはめられているのでした。
これは、権威ある者の息子であるということを証明する特別な指輪でした。
・このような様子、そして怒った兄のこの言葉を読みます時に・・私たちはふとこう思ってしまうのかも
しれません。「イエスさまはここで、人間の心の奥にある嫉妬の恐ろしさについて語っているのかもしれない・・」
・確かにこの兄は、この時激しく嫉妬したのです。 しかし、ここを単なる嫉妬物語として読んでゆくだけですと、主イエス・キリストの宣教の、その入り口にさしかかっただけで終わってしまいます。
・主イエス・キリストの宣教は、小説のようでもなく、道徳的なことのお薦めでもありません。
主イエス・キリストの宣教の、その主意は、一見そのように思える、その奥の奥にあるからです。
・兄の言いたかったことはこうでした。
「父さん。よく考えてみてください。私は長年、いろいろなことにずっと我慢してあなたのそばで働いてきたのです。その間、友だちと思いっきり遊ぶことさえしないで過ごしてきたのです。一点の曇りもなく、 正に正し人間として生きて来たのです。しかし、あなたは私を使用人以下に扱ってきました。
・「一方、弟は、何と、遊女と遊び続けて、その為に、お父さんからもらった財産を全部使い果たしてしまったのですよ。そんな汚らわしい事をしてきた男です。 彼のような者こそ罪人です。
そのような男に、父さんは、上等な服と履き物、それに指輪まで与えておられる。
それはおかしいではありませんか!」
③私たちは、この兄の主張を聞くと、「よくわかる。この兄の言っていることは正しい!一方、この弟は実に汚らわしい、正にけがわらしい。」そのように思いそうになります。
・しかし、よくよく考えてみますと・・兄のように、罪と無縁な、澄んだ川の水の様な、そういう正しい人間は、果たして本当に存在しているのでしょうか・・。
・聖書は、「義人はいない、一人もいない」と語っています。
・果たしてこの兄は、本当に自分が言っている様に、罪なき正しい人間、つまり義人だったのでありましょうか・・
・確かに兄は、真面目に、ずっと父の前で、いい人を続けて来た人でした。 ですから、周りの人たちも、また、彼自身も、この一見理想的な生き方は、父を心から愛していた故だ、と思っていたのだと思います。
・一方、父親は、「弟が罪人で、兄が正しい人」そのような分類はしておりませんでした。
どの人間も、義人ではなく、罪人だと知っておられるからです。
ですから、父親は、同じ眼差しで、弟も、そして兄をも見ていたのです。
・ここに父と兄のずれがありました。
・しかし、この兄の心の奥底の、その真実が明らかになるときがきました。
弟が帰って来たのです。 そして、その家の中から、使用人が奏でる音楽が聞こえてきて・・
父が大喜びしているのを彼は見たのです。
・そこで、兄は、本性があらわになってゆきます。
④ところで、この譬え話のことを、日本では、長い間「放蕩息子の譬」という名で呼んできました。
しかし、この題名、はっきり言って、あまりよくない、そう思っているのは私だけではありません。
・それは、この譬え話に、放蕩息子という題をつけてしまうと、けっこう深刻な誤解が生じるからです。
・ルカの15章の所は、主イエスが語られた譬え話が連続して記されています。一番最初は「失った羊の譬話」
です。二番目は「失った銀貨の譬」です。そして、三番目の譬話しは、「失われた息子たちの譬話」なのです。
・つまり、いずれも、その失われたものが帰って来たことが、神さまにとってどれほど大きな喜びであるのか、このことについて語られている譬え話です。ですからこれはいわば、「失われた譬え話の三部作」です。
・そうであるのに、ここを、「放蕩息子の譬話」と言い出してしまいますと、こういう誤解が生じます。
・放蕩とは、酒や女遊びに溺れて品行がさだまらないことを意味しますから、三番目の譬話しは、弟の事に
違いないと多くの人が、そう思ってしまいます。
・したがって、弟の後に出てくるこの兄は、酒と女遊びとは無縁の人だったので、この兄のことは、いわば付けたしのようなもの。 こう思ってしまいます。 もしそうであれば実に残念な事です。
・そもそも、父が弟息子を必死に捜していたのは・・、この弟が堕落した生活をしていると知ったからではありませんでした。 たとえ、この弟息子が、事業に大成功して大金持ちになったり、有名人になったりしていたとしても・・父は、この失った弟息子を同じように捜し続けていったに違いありません。
・父が喜んだのは・・、弟が、放蕩生活をやめたからではありませんでした。
父親が大喜びしたのは、弟息子が、自分の元に帰って来て、父親と共に生きる者になったからでした。
・ところが、この箇所を、「放蕩息子の譬話」として読んでゆきますと・・
多くの人は、「これは弟の反省物語だ。 人は乱れた生活からちゃんとした生活をする者に変わらなければならない、これはそういう話だ。」そのように誤解をしてしまうことになりかねません。
福音が、道徳にすり替えられてしまう・・可能性が生じます。
・そういうわけで、私はここを読みます時には、「放蕩息子の譬話」として読んではおりません。
「失われた息子たち」として読んでおります。
・「失われた息子」とは、言うまでもなく、「父の身元から失われていた息子」ということです。
では、その失われた息子とは、誰のことを指しているのかです・・
・そうです。もうお気づきだと思います。 ここで語られた主イエス・キリストの譬え話は・・、
放蕩して帰って来た弟のことだけではなくて・・兄もまた失われていた息子であった。
・しかし、弟が帰ってきたことにより、兄もまた、父のもとに返ってくることが出来た、そのことこそ、
父の最大の喜びだった。こういう譬え話なのです。
・このことに気づくか否か、これが神さまのメッセージが、自分の心に届いてくるか来ないかの分かれ目です。
⑤皆さんは、ご自分のことを、この兄弟のどちらに重ねて読んでおられるのでしょうか・・。
・ここに出てくる弟は、誰にもわかる、「単純堕落型罪人。罪人A型」。
兄は、「一見いい人型罪人。罪人B型」 こんな風に言ったら分かり易いかもしれません。
・私は40年程牧師の働きをしてきましたが・・ぼろぼろになってようやく、己の罪に気が付く人、丁度弟のような罪人は、実際には意外に少なく・・、
・大方の人は、ずっとずっと、いい人をやってきたので、なかなか己の罪に気付くことがなかった。
しかし、教会の温かい交わりの中に置かれ、静かに、素直に、己の心の中を考えることができるようになって、そこでようやく己の罪に気づいていった。そういう方々のほうが多い、そんな風に感じています。
・真面目で、一生懸命生きて来た皆さんは、この兄のことがとてもよくわかるのではないでしょうか・・。
どちらかと言えば、私もその一人です・・。
⑥最後に、そういう兄に、父親が語ったその言葉に注目していただきたいと思います。
怒り出した兄を必死になだめている父の言葉です。
・31節 「子よ。 おまえはいつも私と一緒にいる。 私のものは全部お前のものだ。」
・この時兄は、本当の意味で、はじめて父の本心を知ったのでした。
・私は思います。この弟が帰って来た、という事件がなかったら、この兄は激しく嫉妬することもなく、
いい子をずっと続け、 自分でも自分が、いい人だと勘違いし続け・・物理的には父の近くいたにも
かかわらず、父の本心を知ることがなく、そのまま、すべてがあやふやなままで死んでいったかもしれません。
・しかし、今、彼は、父が自分と一緒に居てくださること、父のものは、全部、自分のものであることを
知ったのでした。つまり、自分は神さまの恵みの真っただ中にいるということを彼は自覚できたのでした。
・そうです。兄もまた、ここで、ようやく、本当の意味で、父の身元に帰って来ることが出来たのでした。
失われた者から、真に、父と一緒に生きる者となったのでした。
⑦ある神学者はこんなことを言っています。 「確かに、彼は父の愛はわかっていなかった・・
しかし、それは・・彼の意識としてはわかっていなかっただけであった・・。」
・「深層心理的に言えば、彼は分かっていたのだ。・・無意識の中では・・彼は・・父親に愛されている
ということを知っていたのだ・・。」そんな風に言っています。
・そうかもしれません。私は、この兄の深層心理については専門外なのでよくわかりませんが、
しかしこの兄の、怒りの内容から、彼の心の叫びがよく聞こえます。
・「お父さん。どうして、この私をもっともっと 愛してくれないのですか・・
どうして・・弟のように、私を認めてくれないのですか・・」 そういう彼の、心の叫びです・・。
・いずれにせよ、この叫びと、それに答えて言った父の御言葉によって、この兄は、この日から、「いい人をやらなければ」そういう強制観念から解放されたのでした。
・私たちも、きょうからの日々、今まで以上に安心して・・父なる神さまの確かな息子として、父なる神さまの確かな娘として、その指輪をはめている者として、のびのびと、隣人を自分と同じ様に愛することに、生きてゆきたいと思います。
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