「朝ごとに、正しいさばきを行ない。」(エレミヤ21章12節)
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今回は、エレミヤ書から14回目のメッセージです。前回は、「私の生まれた日は、のろわれよ。」(エレミヤ20章14節)とのテーマで語りました。20章では、エレミヤが逮捕され、むちうたれると言う出来事が起こります。そのような環境で、エレミヤは預言者として立つことの厳しさを経験します。そして祈りを捧げます。エレミヤの心の葛藤がよく示されている祈りです。14節には、「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。」とあります。神の都であるエルサレムが滅ぼされる。異邦人によってイスラエルの民が支配され、苦しみに合う。このような危機に直面しているエレミヤにとって、生まれなかった方が良かったとの祈りは、神の民を愛する預言者として、彼の真実な祈りであったと私は思います。確かに愛すべき者たちが滅んでいく姿を見ることは辛いことです。しかし、人の理解は限定的です。神は永遠で、全能なるお方であるからです。神のご計画の全体を、人は理解することは不可能です。この時点でのエレミヤも同様です。困難な経験を人に与え、その経験を益に換える、神はそのようなご計画をもたれる方です。神は試練を与えますが、確かにその試練の先に脱出の道も備えておられるのです。困難だけに目を注がないで、全てを益に換えてくださる神を信じることができる信仰者でありたいと願っています。
今回はエレミヤ書21と22章に入ります。その前に、第二歴代誌36章から歴史的な背景をまず見てみます。宗教改革を成し遂げたヨシヤ王がなくなってから、ヨシヤの子エホアハズが王に選ばれます。彼は23歳で王となり、エルサレムで3カ月間王であったとあります。わずか3ヶ月で彼はエジプトに連れて行かれることになります。エジプト王によって彼の兄であるエホヤキムが王に選ばれます。このエホヤキムは25歳で王になり、11年間王にとどまります。この王も神から離れた王です。彼はバビロンの王によって足かせにつながれ、バビロンに連れて行かれることとなります。エジプトやバビロンの力がエルサレムに近づいています。続いて王として選ばれるのは、エホヤキンで(9節)で、彼は、18歳で王になり、わずか3ヶ月と10日間の間、王であったとあります。彼もバビロン王によって退けられ、続いてゼデキヤが21歳で王になり、エルサレムで11年間王であったと、11節に書かれています。12節には、「彼はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。」と書かれています。
第二歴代誌36章16節には、「ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。」とあります。このような歴史的な背景の中で今日のエレミヤ書の内容が出て参ります。
私は生まれなかったほうが良かった、そのように神に祈ったエレミヤでしたが、21章では、大胆にイスラエルのゼデキヤ王に神のメッセージを語ります。このゼデキヤ王は、ちょうどヒゼキヤ王の時に起こった神の奇跡を聞いていたようです。ヒゼキヤ王はアッシリアの軍隊がエルサレムを包囲したときに、預言者イザヤに助けを求めたのです。イザヤはエルサレムが解放されるメッセージを語ります。エルサレムを包囲した軍隊は神に打たれ、急いで国に逃げ帰ることになり、エルサレムは解放されたのです。かつてそのような神の奇跡が起こったのです。参照第二列王19章。同様な事をこのゼデキヤ王も期待したのだろうと思われます。21章2節には、「どうか、私たちのために主に尋ねてください。バビロンの王ネブカデレザルが私たちを攻めています。主がかつて、あらゆるくすしいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから。」と語りかけています。皆さん、ヒゼキヤ王は神を信じ、神を恐れた信仰者です。神の教えを求めて生きた王です。しかしこのゼデキヤ王は、南ユダの最後の王となった悪王であって、困った時にエレミヤに助けを求めたのです。エレミヤは、21章3節以降で厳しい裁きがエルサレムに臨むことを伝えています。
続く8節では、あなたはこの民に言え。主はこう仰せられる。「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。」とあります。もうすぐ南ユダがバビロンによって滅ぼされる、これは神のご計画です。エルサレムに留まってはいけない。むしろ、バビロンの地で生きて、悔い改めと共に新たな生き方を求める、それがユダの民に対する神のご計画なのです。もう一度その理由を問うならば、それは22章の9節に書かれています。「人々は、彼らが彼らの神、主の契約を捨て、ほかの神々を拝み、これに仕えたからだ。」とあります。ユダの王も民も神から離れてしまったのです。これは本当に悲しい現実です。主の契約を捨てて、何に信頼して彼らは生きているのでしょうか。
もう一度、神が民のリーダーたちに伝えたメッセージを確認してみましょう。21章12節で、「ダビデの家よ。主はこう仰せられる。朝ごとに、正しいさばきを行い、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。さもないと、あなたがたの悪行のために、わたしの憤りが火のように燃えて焼き尽くし、消すものはいない。」とあります。繰り返すように22章3、4節にも、「主はこう仰せられる。公義と正義を行い、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。もし、あなたがたがこのことばを忠実に行なうなら、ダビデの王座に着いている王たちは、車や馬に乗り、彼らも、その家来、その民も、この家の門のうちに入ることができよう。」とあります。神を愛すること、また民を愛すること。そしてリーダーとして正しく歩むこと、貧しい者への配慮、在留異国人である他民族への愛を忘れてはいけません。このような姿の実現こそ、神が選んだイスラエル民族のあるべき姿ではなかったでしょうか。そのように民のリーダーが歩む時に、祝福が国全体に臨むのです。
私たちも自分の人生を振り返るときに、神の恵みを受け、神の祝福をいただき、人生が豊かになる、そのような体験をします。キリストは私たちの王として、また、仕えるしもべとして、私たちと共に生きてくださるからです。良きリーダーと共に生きる人たちは幸いです。キリストこそ私たちの王、私たちを恵みの御座に招いてくださる方だからです。しかし、その恵みから落ち、心が神から離れてしまうと言うことも起こるものです。
神の願われるリーダーの歩みは明白です。全て上に立つリーダーが、自己中心的な歩みをやめて、とくに貧しい人を大切にしていく。そして、他民族にも同様に愛を注ぐ、その時、彼もその民も祝福されるのです。リーダーが神の約束や恵みから離れないで歩めるように祈っていきましょう。戦争は悪です。そのような会話ができる日本は平和で、祝福されている国であると私は思っています。神は正しい裁きをすべての人たちにいつかなされるのです。神を恐れ、神のみこころを求める、そのような信仰を持つリーダーが必要とされているのです。上に立つ者のために続いて祈っていこうではありませんか。
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